智の木協会活動報告

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2020年 新年講演会 ご報告

1. 開催日時  2020年1月28日 16時-17時30分
2. 開催場所  テラプロジェクト Aゾーン
3. 参加者   企業正会員:4社 賛助企業会員:4社 個人会員:28名 事務局:6名 計:42名
4. 講  師  大阪府弥生文化博物館 総括学芸員 中尾 智行様 
5. 演  題  「日本食が生まれるまで-1万年の食文化史-」
6. 講演内容 (概要)

(1) 自己紹介
 奈良大学で考古学を学ぶ。大阪と鳥取で20年ほど遺跡の発掘調査をしてきた。2013年から大阪府弥生文化博物館の学芸員となり、展示や教育事業のかたわら弥生時代の度量衡を研究している。考古学の道に進んだのは、中学生の頃に社会の先生から聞いた話がきっかけだった。その話とは、イランのシャニダール洞窟で、ネアンデルタール人の骨の回りの土から花粉が発見され、ネアンデルタール人が仲間の死を悼み、献花していたとされる研究成果だった。
「考古学は、時間を超えて、遠い過去に生きた人の心を知ることができる学問だ。」との言葉に魅力を感じ、考古学の道に進んだ。
 ところが、後になって、骨の周りの花粉は、洞窟周辺に生息するネズミの一種が運び込んだものと解かった。シャニダール洞窟以外のネアンデルタール人の骨の周りからは花粉が発見されないので、現在では、ネアンデルタール人は埋葬儀礼を持っていなかったとされている。

(2) 旧石器時代
 昔の教科書などでは、“旧石器時代に、気候が現在よりも寒冷であったために海退が起こり、日本列島と大陸が陸続きとなり、旧石器人が大陸から陸地を歩いて日本にやって来た。”と言われてきた。しかし、日本列島に確実に人類がいた証拠がある後期旧石器時代(4万年前~)で最も海面が低下していたのは、約2万年前で海面の低下は120m程度と推定されている。このため、水深の大きな対馬海峡津軽海峡は陸地化せず、日本列島(本州)と大陸は陸続きでは無かった。琉球列島にも旧石器人がいたことから、現在では、旧石器人が舟で日本にやって来たと言う説が有力となっている。
 旧石器人は、ナウマン象やシカなどの大型獣のほか、ハシバミの実など植物資源も利用していた。沖縄の旧石器遺跡では、巻貝から造った釣り針が見つかっており、漁労も行っていた。また、貝、淡水の蟹、鰻などの食物残滓もみつかっている。

(3) 縄文時代
 縄文時代は、1万6千年前に始まった。土器は、縄文時代になって初めて生まれる。土器によって、縄文人は煮ることができるようになった。世界の中で最も古い土器は、日本で発見されている。最近はそれよりも古い土器が中国でみつかったともされ論争を呼んでいるが、東アジアで土器が発明されたのは間違いないようだ。縄文人は、貝も食べ、日本各地に貝塚を築いた。貝塚の貝の大きさを調査すると、縄文人が小さな貝を採らずに、資源管理していたことが解る。貝塚には、ニホンカワウソやイルカの骨なども混じっている。

(4) 弥生時代
 弥生時代になって、穀物生産が始まった。2007年に第二京阪道路の工事現場から発見された土器は、近畿最古の弥生土器であった。この時に、約2600年前の炭化した米も見つかっている。
 土器圧痕レプリカ法によって、土器製作時に粘土に押し付けられた穀物の種類が正確に判定できるようになった。「縄文稲作」の根拠ともなっていた縄文時代中期などの土器にあった圧痕は米ではなく、現在では稲作の始まりは遡っても縄文時代晩期(終末期)に始まったと考えられるようになった。だが、この時、アワやキビが同時に栽培されていたことがわかっている。複合的な穀類生産は、洪水などの災害や天候不順に備えた戦略だった。弥生人は、イネを低地の水田で栽培し、丘陵地の畑でアワやキビを栽培してリスクヘッジしていた。
 弥生文化博物館で展示している「卑弥呼の食卓」をみてみよう。弥生人の食べていたのは、キビ餅(エゴマ付)、アワ団子、ハマグリ、イイダコなどだった。他にも、豚と芋の煮物がある。豚の骨の傷から、弥生人が栄養価の高い骨髄を取り出して食べていたことも解っている。
 縄文土器弥生土器の大きな違いは、上部の開口部にある。縄文土器では上部は垂直に立ち上がっているのに対して、弥生土器では上部が外側へ屈曲している。これは、蓋を安定的に置くためだった。土器に残っている吹きこぼれの痕から推定すると、弥生時代の米の炊飯方法には、炊き干し法と湯取り法があった。いずれにせよ、蓋が必要であり、弥生土器の特徴的な形状が生まれた。
日本人は、混ぜご飯ではなく、白ご飯で米を食べる。野菜、魚、肉の繊細な味や香りを楽しむためには、白ご飯でなければならない。日本人の食品の食べ方は、白ご飯を食べ出した弥生時代にその源があると考えている。

(5) 質疑
① 米の日本への伝来ルートについて、朝鮮半島ルートは寒冷地経由なので疑問だという意見もあるようだが、どうですか?
→考古学では、物証を基礎に考える。稲が伝来した時には、必ず、稲や稲作の周りの物も伝来しているはずである。北九州と朝鮮半島の人を介する土器などの連続性や、近年、朝鮮半島の発掘調査で稲作の証拠が発見されていることから、朝鮮半島ルートで間違いないと思っている。

弥生時代の味付けは、どうなっていたのでしょうか?
エゴマの話をしましたが、調味料はよくわかっていない。弥生時代の住居は半地下なので、東南アジアのように、魚醬を造っていたことも考えられる。

貝塚が多い国は日本だけだと思うが、貝塚の分布と銅鐸の分布が重なるが、福建省日本人ルーツ説との関係はどうか?
→現在までのところ、福建省日本人ルーツ説を裏付ける直接的な遺跡・遺物は見つかっていない。縄文時代貝塚の中には、部落単位の消費量を大きく上回る規模の物がある。季節を選んで干し貝を生産して、内陸部と交易した可能性がある。縄文時代弥生時代の差は大きい。弥生時代貝塚は少ないので、銅鐸と貝塚の関係を議論することは難しい。

7. 事務局後書
 大変興味深いご講演でした。大阪という身近なところで、様々な考古学的発見があったことに驚きました。紙幅の関係で、概要でしかご報告できないことが残念です。また、開会と閉会のご挨拶は、省略させていただきました。