智の木協会活動報告

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第5回 智の木協会シンポジウムレポート

第5回 智の木協会シンポジウムレポート
平成25年3月8日(金)16時30分〜17時30分

於:大阪富国生命ビル4階 【社団】テラプロジェクト Aゾーン
             司会:智の木協会 事務主幹 川上茂樹氏


開会のご挨拶:智の木協会 名誉顧問 山本幹男氏            
 皆様にご参加のお礼を述べられた後、月桂冠株式会社専務取締役川戸章嗣氏によります「伏見の酒造りと歴史」―米・水・酒造りーに大変興味がありますと話され、今後はお酒好きの方々の会話にも入っていけるのではないかと期待感を示されました。
 智の木協会設立経緯については「大阪大学の諸先生方が中心になり、最近クローズアップされている地球温暖化・CO2 削減問題・バイオマス利用に代表される、植物の持つ多様な機能を活かしていく活動を推進することを目指して2008年5月4日に発足しました」と説明されました。その後、設立の趣旨に大変多くの方々にご賛同をいただき、企業会員26社、個人会員等120名に達している状況をお伝えになりました。特に地方公共団体鳥取県智頭町、大阪市北区のご参加は、官民問わず様々な分野の方々に関心をいただいていることを示しており、当協会の活動が地道ではありますが広がりを見せていることと受け止め、大変嬉しいと話されました。

 シンポジウムやワークショップの定期的開催の目的については、植物の持つ素晴らしさに触れることによって豊かな人間形成が培われること、植物の社会的活用の広がりなどを挙げられました。
 ご自身は2月に伊勢神宮に参拝する機会がおありで、伊勢神宮が20年毎に(式年遷宮)約1万本のヒノキを使って改築されている様子を目の当たりにされ、植物との関わり方が日本人にしか無い感性であると実感されたとか。このような感じ方も、ワークショップ等で諸先生方のお話を伺って培われてきた結果かなとお話になりました。
 最近では新たに、小林先生・川上先生による箕面市彩都の丘学園への出前講座「植物科学教室」、豊中文化幼稚園でのクリスマスツリー製作支援活動等、年代的にも幅広い層に植物に触れていただく様々な活動を積極的に進めている状況を説明されました。
 また、「HP上に企業会員、個人会員の方々の樹や花、それに対する思い等を掲載していますのでご覧いただきたい」「今後も智の木協会を磐石にし、会員の皆様や地域社会に貢献できる活動を展開していきたい」と結ばれました。


事務局報告:智の木協会 事務局長 小菅喜昭氏

 「智の木協会は、大阪大学月桂冠様、コクヨ様のお力を得て設立し、順調に会員が増えています。ひとえに皆様方のお力添えがあったからこそ」と挨拶された後、これまで開催されたシンポジウム、ワークショップ、2011年11月から開催のイーヴニングトークについて紹介されました。特にイーヴニングトークは、「ほぼ毎月開催し、講師陣も素晴らしく、気楽に参加できる上にその後の交流の会も楽しいと評判です」と説明されました。


講演:月桂冠株式会社 専務取締役 川戸章嗣 氏
   
座長:智の木協会 代表幹事 小林昭雄氏


 「酒と言えば米、酒は日本を代表する食芸術の一員といえるのでは」と切り出され、発酵、醸成という言葉について言及されました。醸成とは大変奥行きのある言葉、日本の文化も縄文文化に始まり、海外から諸々の文化が日本に入り、多様な文化が醸成された、その結果が日本の歴史、日本人の根本的なところではないか」と醸造への導入を話されました。
 「食を価値あるところまで作り上げる分野で、農芸化学ご卒業です。食を科学的に解析しそれを活かした最高のものつくり、醸成ということでお話いただきけるものと思います」と講師の川戸氏をご紹介いただきました。


講演:「伏見の酒造りと歴史」―米・水・酒造りー  
 川戸氏が月桂冠(株)に入社されたのは、昭和49年日本の高度成長時代の頃。当時の酒の売り上げは現在の2.5倍程度あり、この40年で業界全体として約三分の一に減ったそうです。アルコール飲料中の日本酒のシェアーは6〜7%であり、「国酒である日本酒を見直し飲んでいただければ」と話されました。
 これまでフランス料理、地中海料理、メキシコ料理がユネスコの世界無形文化遺産として登録されており、和食についても「日本の伝統的な発酵文化を支える和食」という形で登録申請されました。平成25年12月にはユネスコでの審査を経て決定される予定となっています。「旨み」の原点は「発酵文化である酒、味噌、醤油などできめ細かい食生活を培ってきた日本の食文化にあります」と語られ、うなずきました。
 日本酒を見直す動きについて、京都では今年「京都市清酒の普及の促進に関する条例」いわゆる乾杯条例ができ、乾杯は必ず日本酒で、また大使館での宴会では日本酒を勧めようというプロジェクトと、国を挙げて世界に紹介しようという国酒プロジェクトが進んでいるそうです。
日本酒メーカーは約1600社、実際に造っているところは約1300社と聞き、多種多様なお酒が造られていることを実感しました。現在は、その土地の料理と酒がマッチする形で進んでいるそうです。地酒も見直されています。

 月桂冠さんは1637年、今から376年前に伏見の地で「笠置屋」として創業、酒銘は「玉の泉」でした。歴史を感じますね。台湾では酒は国が管理する専売制で、公売局で販売を続け、約二十年前に輸入自由化を前に販売攻勢をかけた結果、月桂冠さんが独占状態となったそうです。酒造業界に追い風・向かい風色々なことに直面されながらも、月桂冠さんは研究開発・技術革新を進めて今日に至っておられます。

 先ず、酒造りの最も重要な原料の一つである水についてですが、昔から京都盆地の地下には豊富で上質な地下水があり、水ガメのようになっており、その量は約211億トン、琵琶湖の水が約275億トンですので、その量がいかに豊富か予想できます。現在でも30m位井戸を掘ると水を得ることができるそうです。いちばん深いところが城陽で岩盤まで約800m、出口は天王山と男山の間の1ヶ所しかなく、地下水を豊富に蓄える地形となっており、このことが伏見で酒造が盛んになった要因の一つです。

 伏見は7〜8世紀、万葉集には「俯見」と書かれていました。伏見という地名は橘俊綱(藤原頼道の子:1069〜1074)が詠んだ「後拾遺集」の中に出て来て、一般的には平安時代になってからと言われていると、史実に基づいて解説してくださいました。
 5世紀、須須許里(すすこり)の末裔の秦一族(酒造りの技術に長けていた)が伏見稲荷にお酒を献上したのが伏見酒の始まりではないかと言われているそうですが、明確ではありません。

 毎年、宮中儀式の中で一番大きい行事が11月23日に執り行われる新嘗祭で、その際、お酒を献上されるのが月桂冠さん。11月初めに宮内庁へ出向き、48都道府県のお米を30㎏程いただかれ、20日位で完成させて献上するということをずっと続けておられるそうです。儀式とお酒との関係が大変深いことが伺えますし、それを月桂冠さんがずっと続けておられることに敬意を表したいと思います。
 
 室町時代には洛中洛外に酒屋が多くあり、当時は腐りやすい夏でも盛んに酒が造られていました。その当時、特に奈良菩提山正歴寺で僧侶たちが造った銘酒菩提泉があり、その技術が伏見に伝えられたことにより、伏見のお酒は品質が高く美味しいという記述が残されています。
実際に伏見酒の起源は、秀吉が伏見城をつくった時に始まると言えるのでは、と川戸氏。御香宮神社の辺りで良い清水が涌き出たことが古くから知られていたことから、秀吉が伏見城をつくることにより、大きな城下町ができ、大きな消費が見込まれるために、多くの酒屋が伏見へ来たと言われています。

 伏見には石井(いわい、御香宮)を含め、白菊井、苔清水、春日井、竹中清水、常盤井、田中清水の7つの名水井戸が全国的に知られていますし、月桂冠大倉記念館の“さかみず”も名水として名を連ねています。
月桂冠さんの社屋は秀吉の時代の武家屋敷で、紀伊徳川屋敷、尾張徳川屋敷、薩摩屋敷などがそうです。それらの蔵は伏見の中でも風情のある場所になっていますと川戸氏。
事実、歴史的な建物である寺田屋月桂冠大倉記念館、その裏から発着する十国舟、名水の涌き出る御香宮と街歩きの材料には事欠きません。
 
 1657年に酒屋を保証する制度“酒株”が出来上がった頃には、伏見には83軒の酒屋があり、15,000石(1石=180ℓ)とすごい量のお酒を造っていたそうです。
 
 酒のもう一つの重要な材料の米について、江戸時代は米は経済の中心であり、当然のことながら米の豊作・不作が酒造りに影響を与えたようです。実際、伏見では「造ってはいけない」というお触れが60回以上も出され、現在は30万石販売しておられる月桂冠さんも江戸末期・明治初期には、わずか500石に減り、その頃から生き残っている酒屋は、月桂冠さんと北川本家「富翁」さんの2社のみだそうです。
 
 伏見よりも遅れて灘でも酒が造られるようになり、京都の近衛家が伊丹の酒を入れ、京都で伊丹・灘の酒が飲まれるようになるとその噂が江戸へ伝わり、灘の酒は酒専用の樽廻船で江戸へと運ばれ、船の寄港地は大変繁栄したようです。明治中期になって汽車が走るようになっても、灘は基本的に船で酒を運び、伏見の酒は汽車で東京へ運ばれました。

 11代目当主の大倉恒吉氏は、技術的に灘に劣っていることを認識、灘で酒造りの勉強をなさった後、月桂冠を採用して大倉酒造研究所を設立、酒造りに科学技術を導入されました。
 当時の桶は木製で木目に菌が入ってしまうと洗浄・殺菌ができず、酒が腐ってしまうことから、月桂冠さんは樽詰め全盛期にビン詰め酒に変更、しかもドイツでビールにサルチル酸を加えていた時代に殺菌温度を研究、1911年業界初となる防腐剤無しの酒造りに成功されました。ブラウンの1升びんを発売、明治屋さん(現三菱商事)を通して莫大な売り上げ成功に繋がったそうです。画期的な開発により、より安全でおいしいお酒が流通するようになった瞬間です。
 紀州徳川藩の伏見屋敷だったところに昭和2年建てられた昭和蔵で、昭和天皇即位の際にここでお酒を造り宮内庁へ献上されたそうです。
 「当時は、生もとや山廃もとと言われる方法で天然の微生物を利用して醸造酵母を培養して酒を造っていました。冬の農閑期に季節労務者である杜氏が来て酒を造るというパターンでしたが、昭和30年頃からは年間を通してお酒を造る四季醸造システムを確立し、サラリーマンでもできるようになりました」と川戸氏は月桂冠さんの研究の成果を話されました。

 「基本的に清酒とは、水と米と米麹を用いて発酵温度を適切にコントロールすることで出来上がるということです。水については、地球上には淡水は3%しか無く、淡水のの約29%が地下水であり、その地下水をうまく利用しています。しかし地下水が存在する場合、地震の際には液状化が起きる可能性があり、細心の注意を払わなくていけませんという話もしています」と川戸氏。
 下水道工事の際にも「地下水を守ろう」という観点から、「京都市は通常使用する鉄製の管ではなくステンレス製を使用してくれました」と埋めた鉄管から鉄が溶出するとお酒が黄色くなって商品にならないという話を説明され、行政も地下水を守り、伏見の歴史ある産業で、日本の文化でもある「日本酒造り」を後押ししてくれている実態を感じとりました。

 かつて日本酒の飲み方は、「熱燗」だったように記憶していますが、最近は大吟醸酒など冷酒が主流なのでしょうか、おいしい日本酒がたくさん造られるようになったと感じています。適量の日本酒は人の心を和らげ、場を和ませ、人と人との懸け橋にもなり得ます。月桂冠さんは社風が「研究と技術革新」ですので、これからも新しいタイプの日本酒をどんどん開発してくださることと期待しています。

座長:
 「我々、お酒のことを知っているようであまり深く知らないということが分かりました。今回は水の項を省いてしまわれたので、また次回お願いします」と代表幹事。

質問コーナー
Q:僧侶が酒を造っていたというお話、我々からすると酒とお坊さんとは建前としては別のような気がしますが。
A: どんな宗派でも高学の人がお坊さんになっていたのではないかと思います。黄檗山など、大学のような感じに捉えられており、他に公卿や武士もいましたが、最高の知識や技術を学んだのはお寺ではないかと言われています。
   乳酸菌をベースに酒母を作るのは非常に難しく、発酵の元である酵母をうまく育種することは大変で、20日から30日、長ければ40日位はかかりました。当時は、足踏み精米で、米を10%くらい(今の飯米程度)しか削ることができませんでしたが、その後水車精米になり、明治以降は20%削れるようになりました。昭和5年以降高度精米機ができるまでは、水車に何回もかけて細かく、柔らかく精米しました。
Q:アルコール度について。
A:低いもので7%、平均的には経済種(月桂冠「月」13%、月桂冠「上撰」や高級酒で16〜7%、20%くらいのもあります。麹や特別な酵母を用いたり発酵のバランスを工夫することにより、高濃度のアルコール製品ができます。発酵でそこまでできるのは日本酒しかありません。
Q:にごり酒はいつ頃から清酒になったのですか?
A: 平安時代の頃、浄酒(すみさけ)というものがありました。たまたま炭を作って酒の中に入れたら濁りが澄んだということです。三段仕込みは室町時代で完成したのは江戸中期になってからです。
Q:日本酒の起源について教えてください。
A: 中国から入ってきたと思います。日本では白米を蒸して、それにアスペルギルス・オリゼー(黄麹菌)の胞子を振って「麹」をつくります。この麹のことを「ばら麹」と言います。これを用いて日本酒を造ります。中国や東アジアでも元々はこの「ばら麹」を利用していましたが、麦や雑穀類を粉にして食べるようになり、そのため酒造りの麹も穀類を蒸さないで生のまま粉砕し、それを練り固めて「餅麹」にする方法に変わりました。中国の酒である紹興酒はこの「餅麹」を使って酒を造ります。この「餅麹」に使われる菌はリゾプス属(クモノスカビ)でこの菌は生の澱粉にしか生えませんが、日本で使われるアスペルギルス・オリゼー(黄麹菌)は蒸した澱粉にしか生えません。中国から伝わった醸造技術は日本の湿潤な気候でうまく順応できるアスペルギルス・オリゼー菌が日本の麹造りに使われたと考えられています。神話の世界で知られています八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する時に須佐之男命(すさのおのみこと)が飲ませた酒、八塩折の酒(やしおりのさけ)は今でいう貴醸酒という酒に似ており、お酒を仕込水代わりに使って造った酒と言われています。
Q:吟醸酒を絞る際、柿渋を上手に扱っているなと昔思いました。あの辺りの技は何処から来たのでしょうか?
A: 今でも柿渋は使っています。タンパクや濁りを凝集して沈殿させる時に、柿渋とゼラチンを併せて使うと清澄したきれいな酒になります。狂牛病問題でゼラチンは問題があるということになりましたが、柿渋単独ではきれいに沈殿しないので他の素材を探しました。各社各様で色々な使われ方をしていて、一時期月桂冠は柿渋は使わないことがありましたが、現在では柿渋を使っています。

座長:智の木協会としては、月桂冠さんのツアーに行かせていただきたい。柿渋の説明もお願いしたいと思います。

閉会のご挨拶:智の木協会 副理事長 黒田錦吾氏

 先ずお集まりの皆さんにお礼を述べられました。「川戸専務のお話が面白くて、あっと言う間に時間が過ぎてしまいました。年齢的にも日本食と日本酒が大好きで、嗜む以上にいただきます」と黒田氏。
 日本食と日本酒は対のもので、また、季節毎に素材も器も異なるというような文化がありながら、日本酒の出荷高が減っていることを残念に思います、と話されました。
 この冬は家では鍋物が結構多かったのですが、いよいよ桜が咲く頃になり、桜を見ながら酒を〜〜これもまた一つの日本の文化ではないかと。同じ飲むならがぶがぶ飲むのではなくて、薀蓄を語りながらということを、今年はぜひともやってみたいなあと考えています、と語られました。
以上

【交流会の写真】

 講演終了後、交流会を開きました。月桂冠さんの秘蔵酒「大吟醸 笠置屋」で乾杯。
智の木協会名誉顧問、小清水弘一氏のご挨拶をいただきました。