智の木協会活動報告

智の木協会の活動報告ブログです

第10回 智の木協会ワークショップ レポート

 ・日時:平成28年5月31日(火)
 ・会場:大阪富国生命ビル4階 「社団」テラプロジェクトAゾーン

司会:智の木協会 事務局長 小菅 喜昭 氏

開会のご挨拶:富国生命保険相互会社 不動産部 北林 誠 氏





 富国生命保険相互会社不動産部の北林様からご挨拶をいただきました。富国生命保険相互会社様には、智の木協会設立と同時に企業会員としてご入会いただき、今年で9年目になります。
 先ず、本日ご参集の皆様にご参加のお礼を述べられました。親戚にお茶屋さんがあり、そこでは素人とは異なったお茶の淹れ方で味もおいしいですが、本日はおいしいお茶の淹れ方についても教えていただけるのでは、と期待感を示されました。
 智の木協会の設立趣旨、「植物の持つ多様な機能や植物活用の優位性を認識し、持続可能な美しい環境づくり」「植物や自然の共生を通じた豊かな人格形成の大切さ」等、そこに活動がつながっていくということで、富国生命様として智の木協会の活動を支援しますとあらためて表明してくださいました。
 昨年、智の木協会は「シンボルグリーン東梅田」ということで「フラワーケーキ」の製作に携わるとか、「大阪みどりのサンタ・ラン」で活動を具体化していることを説明されました。「それは会員の皆様の強い絆があってこそ」と話され、智の木協会の理念や提言が広く社会に浸透することを願い、持続可能なよりよい社会づくりに貢献していただきたい、と結ばれました。




智の木協会の説明と座長:智の木協会 代表幹事 小林 昭雄 氏





 本日、小川可楽先生を講師としてお迎えできたことの喜びを率直に語られました。本日のタイトルは「煎茶への誘い―〜〜」さそいではなく、いざないと読む、また、茶房はちゃぼうではなくさぼうと読む、この道は非常に深く、日本人の心ではないかと話されました。そして、我々の心や感性を養ってきたのは、みどり豊かで四季がはっきりしている日本のこの自然ではないかと続けられました。
 代表幹事は学生時代、京都の大学で農産製造学を学ばれました。自然、色、花、匂い、味などの成分を徹底して科学する伝統を継ぐ研究室に属しました。もちろん、お茶の分析もお手のもの。大学で粋な先生の指導を受け、色んなことを学んだその流れの中で智の木協会を設立し、その流れに賛同してくださったのが、可楽先生と家元の後楽先生でしたと話されました。後楽先生には第2回シンポジウムで講演していただいております。
 智の木協会は「智を持った人たちの集まり」であり、智の木の木について次のように説明されました。「木には人が2つ隠されていて、十も人であり、それを支えるのも人ということで、智の木協会設立時に樹も考えましたが、人間は支えあって生きているということが重要なので木にしました。」
 事務局から、今回、可楽先生とお話しさせていただく中で、9月頃小川後楽堂を訪ねさせていただくツアーの計画が出されたことを告げられ、可楽先生にバトンを渡されました。




講演 小川流煎茶家元嗣 小川 可楽 氏
タイトル:「煎茶への誘い―文人と喫茶」 





 「家元の跡継ぎという肩書を持っていますが、緑豊かな北山の麓でお茶の修行を未だしている身分です」「本日は、煎茶の魅力を少しでも分かっていただけたら」と謙虚な口調で講演を始められました。
 「煎茶は、Green Tea で茶葉にお湯を注いでそこから茶液を取り出すものです」と説明されました。一般的に急須や急須に代わる入れ物に結構な量の茶葉を入れ、時間的なゆとりがないためか、現代人は忙しすぎるのか、沸かしたてのお湯を注いでお茶を出し、飲むことが行われていると思います。こんな身近な煎茶ですが、極意を知らずおいしいお茶をいれることができないのが現状です。可楽氏が「この世界を知らない人が多いと思います」と話されるように、知らない人も多いですし知る機会が身近にないとも思います。この度、家庭でもおいしい煎茶を味わうことができるように、人と交流しながら、あるいは交流のツールとして煎茶を用いることができるようになることを願って可楽氏に講演をお願いしました。「煎茶は茶の湯と比較して、昔から戸外でお茶会をしたり喫茶を楽しむ傾向がありました」と述べられましたが、それについては意外と知らない人が多く、知らないことが「敷居が高い」と感じる要因になっているような気がします。
 お茶会が開かれる機会について説明していただきました。京都では三大祭、葵祭祇園祭時代祭がありますが、「葵祭について言えば下鴨神社では祭が1か月間行われ、その後、神様に対してお茶を捧げる献茶という儀式を行います。このような儀式は、近江神宮春日大社などいろいろな神様に対して行います」と可楽氏。これらの後に神様に捧げたお茶を私たちも共に楽しませていただこうということでお茶席を設けることがあり、主催者側は着物を着て作法に法ってその流派のお茶を淹れ、お客様は現在では洋装や立礼(りゅうれい=机と椅子を用いる)といったスタイルでお茶を楽しんでいただくこともあります、と具体的に話していただきました。「お祭りの後に大寄せのお茶会を定期的にやっていますので、ぜひ足を運んでいただきたい」と申されました。
 小川流では普段のお稽古の中で、全国のいろいろな銘茶を集めてお茶の利き茶のようなお茶の産地を当てっこするゲーム、競茶も行い賞味力を挙げていく風雅なあそびがあることを教えてくださいました。小林代表幹事の学生時代の研究室で伝統的に行われている同様の遊びに「茶香服・茶歌舞伎」があります。茶の湯にはない楽しい遊びではないでしょうか。
 小川流ではまた、上等品のお茶を客に差し上げる前に、焙じ器を使って葉を炙り、番茶手前もされています。この番茶とは、私たちが一般的に想像する琥珀色の番茶ではなく、緑茶とほうじ茶の中間くらい、独特な淹れ方をなさっているそうです。番茶は夏は喉の渇きを癒し、冬にも香りと共に楽しむことができます。ほうじ器の下には和紙が張ってあり、焦がさないように少し火をいれるととてもよい香りがたつのだそうです。





 煎茶の道具について説明していただきました。涼炉(りょうろ)というお湯を沸かす道具が凛と立ち、その上に湯瓶(ゆへい)が乗っています。涼炉の中には炭が入っていますが、熱さを感じさせません。湯瓶は急須に似た形で、素焼きの湯沸かしのこと、ボーフラとも言うそうです。茶碗は盃くらいの小ぶりのもので、白磁に文字や絵が描いてあり、風流、風雅なものを好んで使うのが煎茶の特徴だそうです。5客準備されていて、茶葉の上から冷ましたお湯を注ぎ、茶碗に急須から注ぎ分けられます。小川流ではこれを「滴々のお茶」と表現されていて、私たちはお茶は「飲むもの」と意識していますが、流祖小川可進は「喫するものなり」という考え方を示しています。また、「お茶をおいしくいれる」ことが大切なのであり、道具は古くても新しくても、輸入品でも日本製でも良い道具を大切に使いなさいとの教えがあるとのこと、合理的です。
 歴史を紐解きますと、田螺山遺跡(でんらさん)で茶の化石が見つかり、六千年前にお茶があったことが分かっています。そして、中国唐の時代から茶として摂取する文化が生まれたとあります。茶の湯武家社会中心に広まったのに対して、煎茶は唐時代のお茶の聖人、蘆仝(ろどう)や陸羽(りくう)によって起こされ、それまでの食べ物的なお茶ではなく、彼らの精神は文人や志士に好まれていったという経緯があり、貴族社会で好まれたとあります。この二人は茶聖で、陸羽は茶の栽培法、茶道具、茶の淹れ方などを研究して「茶経」にまとめ、私たちがイメージする茶の淹れ方が確立されたそうです。蘆仝は詩人でもありますが、貴重な新茶を孟諫からもらった際にお礼の手紙を書いた一節を説明していただきました。
 ・一碗飲むと、喉の渇きを潤し
 ・二碗飲むと、くよくよしていた気持ちも無くなり
 ・三碗飲むと、体の中に五千巻の経典を得たような、頭がすっきりする気持ちになる
 ・四碗飲むと、毛穴から悪いものが出ていくような
 ・五碗飲むと、肌がつるつるになる
 ・六碗飲むと、魂が仙人のそれに通じる
 ・七碗飲むと、もう飲めません、両脇に清風が吹いてきて、仙人が住んでいる
と言われている蓬莱山へ連れて行ってくれるような、それ位爽やか、かつさっぱりとした気持ちになる、それ位素晴らしいお茶をありがとう





 最初はお礼を述べていた手紙、しかし最後の方は農民が苦労して命をかけて作っていることを理解していますか?といった詰問になっている、蘆仝の民を思う精神性が感じられるそうで、この労りの精神が煎茶の精神につながっているとの解説でした。
画に見る煎茶として、森寛斎(1814〜1924)の鞍馬の天狗が深山で煎茶を楽しんでいる様子、富岡鉄斎(1836〜1924)の自然の中でお茶を楽しんでいる様子、三代 歌川豊国(1786〜1864)の船の上で楽しんでいる様子を示していただきました。「いずれも涼炉と煎茶特有の道具が描かれており、江戸時代から煎茶が嗜まれていたことが分かります」と可楽氏。江戸時代後期、明治時代になりますと、婦女子の教育の一環として使われてきており、野口小蘋(1847〜1917)の美人画の中にも煎茶道具がありました。水野年方(1866〜1908)の『高楼迎客煎茶之図』の中には、部屋の中でお茶会が催されている様子が描かれ、美人図で華やかで女性がたしなむものとの印象を受けます。可楽氏は「しかし、江戸時代は男性の世界のものでした」と話されました。
 蘆仝や陸羽以前の「食べるお茶」について「お茶は具材の一つであったり、スープに入れたりして摂取する仕方が始まりで、現在も各民族の特有のお茶の摂取の仕方が引き継がれており、中国の近隣諸国でも野菜の一種とも言える摂取の仕方がなされています。バター茶、ミルク茶になりますとお茶に近づいてきた感はありますが、現在のお茶とは異なります」と可楽氏。蘆仝や陸羽が飲んでいたお茶は、餅茶・団茶で乾燥しやすいように中心を紐で通し、飲む時は軽く火で炙って柔らかくして「茶研」で荒く砕き、沸いた湯の中に入れ、「茶を煎じる」ことから煎茶と呼ばれていました。
 現在の煎茶は、茶葉に湯を注いでいれる淹茶(えんちゃ)といういれ方になり、岡倉天心がお茶の文化を海外に紹介する際に「茶の本」を出版した、それについて説明していただきました。
 1.煎茶(唐代 平安時代
   The Cake-tea which was boild.
 2.抹茶(宋代 鎌倉時代
   The Powderd-tea which was shipped.
 3.淹茶(明・清代 江戸時代):急須の中に湯を注ぎ、そこからお茶を取り出す。
   The Leaf-tea which was steeped.
 歴史的に煎茶の文字が表れたのは、平安時代嵯峨天皇が近江に行き、梵釈寺に立ち寄った際、お寺の永忠(遣唐僧)が「手自煎茶奉御」、お茶で接待した時だそうです。嵯峨天皇奈良時代からの古い慣習に決別し、中国をモデルにして自分らしい都つくりをしたいと思い、遣唐僧を送りました。お茶が非常に気に入り、それまで宴ではお酒が付きものだったのに対して平安前期ではお茶でコミュニケーションをし、漢詩を詠みましたが、平安時代後期になりますと嵯峨天皇空海も死去、貴族社会にも陰りが見えてきて、宴会といえば現在のようにお酒でという風潮になり、煎茶文化も忘れ去られてきました。
 宋代の皇帝は前の皇帝が煎茶を尊んでいたことが気にいらず、煎茶にかわって抹茶を飲むようになりました。同じころ日本では、栄西明恵に友好の証としてお茶の種を送ったそうです。辛い修行をしていると眠くなりますが、そんな時お茶を飲むと頭がすっきりしますので、お茶は目覚まし草と言われていたとか。明恵はお茶の苗を京都栂尾(とがのお)に植えたところ、そのお茶が非常においしかったことから、栂尾のお茶が本茶であり、それ以外はお茶ではないと言われるくらい有名なお茶になり、民衆が栽培方法を明恵に請うたところ、「馬に乗り、そのひずめの跡に種を蒔きなさい」と教えたそうです。この栽培方法が後に宇治に伝わり、宇治の銘茶の始まりになったとのことです。
 中国、明朝の元璋皇帝は、抹茶にして納める方法は農民に苦労がかかるからと、前の皇帝とは異なるやり方に変更し抹茶を廃止し葉茶での貢茶にしました。この頃から淹茶方式に変わり、淹茶の飲み方を日本に紹介した人が万福寺に来た隠元(1592〜1673)と言われています。万福寺と言えば、普茶料理ですが、精進料理を淹茶と共に広めたそうです。隠元を庇護したのが後水尾法王で、後に修学院離宮建立を命じた人です。後水尾法王は、修学院離宮に煎茶のかまどを造らせましたが炉を切らず、抹茶の茶室は造らせていません。後々、修学院離宮明治維新の原点と言われているそうです。茶の湯は、当時、武家社会、徳川幕府側の教養であり、朝廷側は平安時代嵯峨天皇が好んでいた煎茶を尊び、煎茶は勤皇派の思想の原点になったようです。後水尾法王の息子、堯恕(ぎょうじょ)法親王(ほっしんのう)は“一生薄茶もまいらせず、煎茶のみなり”と
幕府に対する嫌味を表したとあります(「槐記」)。





 江戸時代になり、煎茶中興の祖として売茶翁が現れた様子を話していただきました。京都の観光名所でお茶の振り売りを行い、値段を決めずただ飲みでもいいような売り方をしたため、京都の風雅な人、文人から注目されるようになったそうです。売茶翁はもと僧侶だったとか、目的は当時腐敗・堕落・衰退の一途をたどっていた禅僧社会に対して警鐘を鳴らすことで、当時は茶の湯イコール禅という考え方があったため、批判は「茶禅一味」を説く茶道そのものに向けられ、その考え方に対して決別の意味がありました。蘆仝の生き方によせる強い共感がありました、と可楽氏。振り売りすることによって多くの人が集まり、その人たちに自分の考え方を説いていった、要するに煎茶を上手に使ったのです。売茶翁は当時の京都の文人からすると憧れや敬意の的であったようで、多くの人たちが肖像画を描いています。
 「夏目漱石もまた、売茶翁のファンであったことがその足跡を辿ると分かります」と可楽氏は漱石下鴨神社を訪れた際に詠んだ歌を示して説明してくださいました。
 “春寒く 社頭に鶴を 夢みけり” 売茶翁は、下鴨神社の糺(ただす)の森で一服一煎という形でお茶の振り売りをしていましたので、漱石糺の森に来ることが憧れだったそうで、夜やって来て売茶翁を偲んでこの句を詠んだとのことでした。
 その後、喫茶精神は上田秋成(1734〜1804)に受け継がれ、幕末には頼山陽などの勤皇派に好まれて行き、茶の湯対煎茶という図式ができ上ったと話されました。
 日米修好通商条約締結の裏で、ハリスと下田奉行井上清直が難しい交渉をした際に、井上はハリスをお茶席に誘い、手自ら一煎差し上げたそうです。幕府は茶の湯を嗜むことが教養でしたのに、井上は煎茶で接待したのです。高い身分の信濃守(井上)自らお茶を淹れてくれたということは、友好の証であり最上のコミュニケーションであるとハリスは感じとり、困難な交渉が前に進んだということです。「これは、煎茶による高度な非言語コミュニケーションが成立したとも言えます」と可楽氏。人がコミュニケーションをとる上では、言語によるコミュニケーションの方が重要視されると思われますが、心理統計学では非言語コミュニケーションの方が重要だという結果が出ていて、その割合が85〜95%という高い数値になっており、言葉が意味する内容は15%から僅か5%程度しか重要視されていないということになります、と可楽氏はご自身の研究テーマに繋げて話してくださいました。また、「お点前をするということはおいしいお茶を淹れてあげるということで、ハリスは自分のために信濃守がお茶を淹れてくれる動作そのものが高度なコミュニケーションであり、最上のおもてなしということを感じとったと思われます。非言語コミュニケーションは、現実には味覚ということで、お茶の味が非常に効果があったのではないかと考えています」と結ばれました。
 小川流の煎茶は「雀の涙」と評されていますが、奥の深い「甘い」お茶の味は、一度喫した人を虜にしてしまいます。


 講演終了後、スライドの「丸亀のお茶について」に質問が出ましたので、引き続き説明していただきました。
 幕末、大名が大名庭園として管理していた中津万象園 観潮楼が丸亀にありましたが、ここには煎茶用の茶室を造っていたそうです。大名が造るお茶室のほとんどは抹茶用だったこの時代にです。一般的に大名庭園は庶民に開放されていなかったにも関わらず、ここはかなり開放的だったようです。近年になってここは現存する最古の」「煎茶席」ということが学術的に分かってきたそうです。


座長:まとめとして「全てが印象的で、五感で感じるものなのだと、そのためにも我々は五感を研ぎ澄まさなければならないと思いました。握手よりも感じるものを大事にする日本人の心というものを再確認させていただきました」と結ばれました。




閉会のご挨拶 智の木協会 理事 大塩 裕陸 氏

 お茶が大好きとおっしゃる大塩理事、しかし煎茶道の中身については全く知りませんので、大変良い勉強になりましたと話されました。可楽氏の姿勢のよさ、素晴らしい立ち振る舞い、動作がやさしい、全て伝統を受け継いで発展させておられる日々の精進が身体に表れている、まさに非言語コミュニケーションそのものと感じました、と述べられ閉会のご挨拶とされました。










 閉会後は交流会が開催されました。