智の木協会活動報告

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第4回智の木協会シンポジウム レポート

第4回 智の木協会シンポジウム レポート
平成24年3月5日(月) 17:30〜20:00
於:富国生命ビル 4階 〔社団〕テラプロジェクト Aゾーン


開会のご挨拶 智の木協会 理事長 豊田政男氏
 「智の木」の「智」は、知識の知で下は曰くと読み、「知曰く」つまり知識を活かすためのサロンとして智の木協会があり、富国生命ビル自体も生命の樹ですので、サロンの場所としてまさに最適と言えますとお話になりました。

 また、多くの方々にご賛同をいただいており、毎年制作のカレンダーには、企業会員の方々の樹花を掲載させていただいておりますが、今年度は2種類制作したことを報告されました。
 本日のご講演者、谷岡氏につきましては「我々の心の安らぎとしての写真についてお話いただけるのでは」と、また、石濱氏のご講演タイトルにつきましては、「貌という字がいいですね。フェイスではなく容貌がある、姿がある貌ということでお話いただきます」とご紹介いただきました。
 交流会ではネットワークの構築をと要望されました。


事務局報告 事務局長 小菅喜昭氏
 富国生命ビル4階、【社団】テラプロジェクトの一員として入居後1年経過、電話専用回線(06−6361−9520)を設置したこと、会員数の増加、企業正会員・賛助会員が20社を超えたこと、募集の継続等についてお話がありました。

 活動について、年1回のシンポジウム、年2回のワークショップ、テラプロジェクト主催『世界クリスマスツリー市民選手権』に参加し、「お気に入りツリー賞」に輝いたこと、エコツーリズムでは、6月に「信州蓼科バラクライングリッシュガーデン」を訪ね、9月には「西安世界園芸博と杜仲の森視察」を行なったことを報告されました。
 その他、植育支援活動、制作支援活動、自主事業の実施(智の木イーヴニングトーク)、HPによる情報発信などについて詳細に述べられました。「社木、個人の樹花、活動内容、イベントの開催予定・結果など、全てHPに掲載していますので、定期的にチェックしていただければ」と結ばれました。
 
講演 Ⅰ 株式会社タニオカドレス 代表取締役社長 谷岡一治氏 
美を切り取り伝える美学の主役 ―カメラと出会って50年―
「モード屋・KAZ・ライフワークの進化」


座長:理事 西嶋茂宏氏

 講師谷岡氏について、「株式会社谷岡ドレスの代表取締役社長であり、日本被服工業組合連合会や大阪府被服工業組合理事長を歴任されております。また、昨年は旭日双光章を受賞されており、多面に亘り造詣の深い方と伺っております」とご紹介いただきました。


講演Ⅰ
 世界がグローバル化し、生活圏が急速にデジタル化されてきている中、これまでのご経験から「日頃の生活に最も大きな影響を与える五感要素は、視覚を通じての経験蓄積にあると思います」と切り出されました。長年携わってこられた服飾ビジネスの原点については、「その機能性の追求と共に視覚的に美しいものがプロトタイプとして残っており、イギリスのチェック柄などはその代表です。装いの主流は民族衣装と考えてよいと思います。装いは個のプレゼンスの主張でもあります」と解説してくださいました。
 谷岡氏とカメラとの出会いは1967年のニコンFであり「大自然の有様も光の質や光陰で表情が変わります。被写体は朝と夕、すっかり表情を変えますし、時の流れと共に、また、受け止め方の感覚も変わります」と、カメラは美しさや優雅さを切り取り保存することができる最高の道具であることを強調されました。

1. グローバル社会では民族の生活様式も進化
 アナログ時代は一人の作者やデザイナーが「ものつくり」と言われるジャンルを受け持っていましたが、今日では制度の高い完成品を作るためにスペシャリストが「分業」で制作するようになったと話されました。どの職種も芸術品も高級ブランド品は分業で構成されているそうです。
2.デジタル文化に毒される映像と色素温度
 テレビがデジタル放送に変わって色の鮮明度が上がりました。このことを写真界では色素温度が上がるというのだそうですが、テレビに限らず人間の目もデジタル色素に毒されて、色素温度の高い生活用品を好んで使用する傾向にあるそうです。百貨店やスーパーマーケットでも、生鮮食料品売り場で鮮明度を強調する照明で陳列している・・・、気がつかないうちにそんなことになってしまっていたようです。

3.生活文化も急激なスピードで大きく変化をしました
 過去約50~60年の生活文化の進化の勢いについて、エネルギー分野、住居分野、服飾やファッション分野に分けて説明していただきました。服飾分野では「モンペ・簡単服・巻スカートなどの野良着ファッションから、ブラウス・ジャケット・ベビードール・チョゴリもどき上着、ボトムでもジーパン・パンツ・タイツ・短パン」など。呼び名から時代が連想できます。

4.カメラの渡来と栄華の今昔を考える
 日本のカメラの歴史についての説明がありました。江戸時代末期に渡来し、薩摩藩で半日動かずに撮影するような写真機が使用されていたそうです。
 谷岡氏はプロの写真家として認定されており、2007年神戸県立美術館で開催の写真展「写真家たちの軌跡100年」にも参加されています。
 1967年、谷岡氏の最初のカメラニコンFは、当時、給料が5〜6万円で標準レンズ付カメラが8万8千円位、交換レンズのセットで22万円位だったとか、今も大事に棚に並べておられるそうです。
 ハッセルブラッドはスエーデン生まれで生誕105年、本体はスエーデン製、レンズはドイツのツアイツ、門外不出の硝石で作るそうです。プロも一度は手にしたいと思う世界の名機と言われ、100年で機種も種類も大変な勢いで繁栄をみたそうですが、デジタルカメラの出現で衰退も早いと感想を述べられました。本日はハッセルブラッドをご持参いただきました。

5.初期のカメラとフィルムの進化
 初期はモノクロ写真で手作りの暗室で焼き付けをして、試行錯誤の後に今日の発展と繁栄をみましたが、そのスピードは驚異の連続だったそうです。しかし「デジタルカメラの勢いは感嘆の極みです」と谷岡氏。

6.カメラとレンズの効果を探る
 カメラの種類について説明していただきました。35ミリ判(ライカ判)、6.45判(ハーフカット)、6×6=ハッセル判、4×5=リンホフ判等6〜8種類に分けられるそうです。この会場では最高機種のハッセルブラッドを見せていただきました。しかし「いかなるメーカーの最高級レンズをもってしても人間の目よりも美しく見えるものはありません」と断言されました。人間の視覚は大体230度の角度が見える優れものです。しかし「見えることと見ることの次元は別です。レンズの性質の効能をしっかり認識するとよりよい自然観が得られます」と奥深い言葉が続きました。
 ライカ判35ミリカメラのレンズを標準で換算してレンズの説明をしていただきました。「人間の目は100/ミリの準望遠レンズの範囲を正確に見ることが可能です。この範囲は鮮明でシャープなピントが来ています。これ以上は、写真では広角レンズを使用します。基本は、被写界深度の浅い望遠レンズと被写界深度の深い広角レンズで対応しています」と専門的です。ブレやボヤケの写真については「デジカメでもピントが鮮明でない場合、大半の原因は光量不足でスローシャッターになって手ブレを起こしているのだと思います」と説明してくださいました。「人間の目は精密機械と同じく、視界の角度が100ミリで、マバタキは1/60秒ですので、それ以上早いシャッターで切ればブレは止まります。その場合、光不足で被写体が映らない可能性もあります」と谷岡氏。そして「美しい被写体を探すこと。被写体のどの部分が美しいか。角度を変え、周りを見て、美しいと感じ、感動した部分を中心にシャッターを切りましょう」と適切なアドバイスをくださいました。

7.写真は切り取りの美学
 「広大な大自然の美しい姿の中で、レンズの見える範囲で一番美しいと思われるところを切り取って撮影してください」と谷岡氏。
 例えば被写体が子どもの場合「優しく撮るには目線を同じにする、威張って見えるように撮るには下から煽る、可愛らしく撮るには上部から覗く、拗ねて撮るには斜め下から、厳つく撮るには三歩近く、美しい写真はバランス良く撮る」と具体的に教えていただきました。特に桜や梅の前でバランスのよい写真を撮るには、1メートル位前に立つのがポイントで、顔にピントが合えば後ろの桜はより美しく撮影できるのだそうです。「感性は個人の持ち物です。自身の感性を活かした作画を作ると楽しい写真が仕上がります」と、写真撮影とはレンズを通して自分の個性や生き方までが表れるものだということを知りました。

8.写真は光と陰の芸術と言われる
 「芸術の元、光と陰は無限にあります。美に対する洞察力と観察力、それに加えて興味を持っていただくと街を歩く時に鋭い観察の目に変わると思います」とこれまた、生き方の姿勢が撮影に影響をもたらすことを示唆されました。何事にも興味を持って被写体を追いかける体力に挑戦することが健康維持と若さを保つ秘訣になるそうです。
 写真の原点は「ヌケ」と「キレ」にあり、「ヌケ」は透明度が素晴らしくよいこと、「キレ」は鮮明度が極めて良いと言われる現象だそうです。馴染むには10年の歳月が必要だとか。何事にも年数がかかりますが「現在はデジカメなので押せば映ります。楽しむためにはどんどん撮っていただきたい。新しい世界に挑戦してほしい」とエールを送ってくださいました。素人ですが自信を持って撮りたいと思います。

9.日本的な大自然の色素表現が薄れている
 日本の美しい色の表現について説明していただきました。「目にやさしい自然色と言われるものは、みどり色、桃色、黄緑、抹茶色、紫、利休茶、あさぎ色、藍色、スミレ色、桜色、ねずみ、当世茶、アザミ色などの日本古来のものでしょう。」そして、「毎日10分でも自然に触れましょう。このことが環境重視で地球にやさしく自然を大切にという心だと思います」と写真撮影以前の大切な心構えをお教えいただきました。

10.グローバル時代こそ未来に残す映像を
 最近は、プロも素人も女性も皆利便性と安価のデジタルカメラに移行し、美しい写真を残すことが困難になりつつあることを説明されました。素人はデジタルカメラの方が扱い易いのですが、安易な方向にばかり向かうことへの警鐘を鳴らされました。「自然破壊が起こり、都市部も急激な変化が起きているこの時代こそ、実社会と変わり行く街を記録に残すことが大事」と結論づけられました。
 講演タイトルの「モード屋」と「写真家」、その視点の鋭さ・正確さが共通している、どちらも超一流であることを実感しました。
 叙勲の際のお話もしていただきました。
 縄文杉は69歳の7月に撮影に行かれたそうです。「32㎞の山道を登って撮って来ました。日本には世界に誇れるものがあるということを知ってほしい」また「安らぎ、偏らない、拘らない、囚われない、そういう心を持つことが大切だと思っています。純粋な生命力が蘇ること、そのことが智の木の平安だろうと思います」と結ばれました。

代表幹事:谷岡氏へ「ぜひお話してほしい」とお願いしたのは、ハッセルブラッドにまつわることでした。私が27歳の時にこのカメラがほしいと思い、留学を決意した代物です。初任給が2~3万円の時に36万円、とてつもない値段のカメラで、とても日本にいたのでは買えない・・・。素晴らしいカメラですので、皆さんも拝見させていただいてください。



講演Ⅱ 大阪市立海洋博物館 なにわの海の時空館名誉館長 石濱紅子氏
    「なにわ」から探る大阪の貌(かお)


座長:代表幹事 小林昭雄氏
 「講師、石濱紅子氏は、お父様は作家で著名な石濱恒夫氏、おじい様は東洋学者の石濱淳太郎氏で、中学生の時にお父様とヨットで大西洋無寄港横断に挑戦、最年少記録を作られ、翌年手記『海よ私はくじけない』を刊行されました。その後も、文筆、イラスト、衣装デザイン等の分野でご活躍中です。紺綬褒章を始め、数々の感謝状も受けておられます」とご紹介いただきました。「紅子さんのお名前は川端康成先生がお付けになられたとお聞きしています。21世紀になり景気が低迷していますが、個人的には高齢者が頑張らなければいけない、女性の力を日本は上手に生かしていくことが重要であると思います。先生はこれから関西のフロントランナーとして動いていただける代表選手ではないかと思います」と結ばれました。


講演 Ⅱ
 昭和39年~40年頃のヒット曲「紅子のバラード」(アイ・ジョージ)の作詞者は、石濱氏のお父様だそうです。お母様は「風と共に去りぬ」がお好きだったそうで、ヒロインのスカーレット・オハラのスカーレットを日本語に訳すと「紅」になり、お名前にはその思いもこもっているとか。本日お母様も会場にお越しで、石濱氏ご誕生の頃を懐かしく思い起こされたのではないでしょうか。
 なにわの海の時空館は2000年にオープンし、石濱氏が初代館長、しかも38歳で女性、日本で公的な博物館の館長としては最年少と素晴らしいスタートだったのですが、新市長になり、廃止もしくは撤去という厳しい判断が出されています。

 石濱氏には、大阪人が自らの手で人が育っていくために必要な大切な土台、つまり台地や土地を造っていったバイタリティに溢れていた人たちであったこと、また、時代に先駆けて新しいシステムも作っていった人たちであったことを、多くの資料に基づいて講演していただきました。
 先ず最初に、なにわを漢字で幾つ書けますか?というご質問がありました。実は8つもありました。
最初に歴史に登場したのが「浪速」(なみはや国体)。神武天皇が九州から大阪湾に来られた時に、波が速くて2日間ほど上陸できず「何と波の速いところだ。ここを浪速と名付けよう」とおっしゃったとか、それで「浪速」になったと言われています。難波(地名)、浪花(なにわ節だよ〜)、浪華もあるそうです。県外からの転入者にとってあまり馴染みのなかったなにわを2つご紹介いただきました。「菜庭」と「魚庭」です。なにわの伝統野菜とか大阪府の海の森プロジェクトなどでこの2つが出てくるそうです。また、「名庭」「市庭」も出てくることがあり、これらは瀬戸内海や大阪湾に面していて、船運によって食料や物資が運ばれてきて、なにわの地で商いをしたことを物語っているそうです。
 6〜7世紀頃は水害が起きやすく、仁徳天皇が砂地をくり抜いてバイパスを作ったという史実があります。その結果水害の範囲が狭くなり、内海に入ってきた所に日本で初めての都「なにわの都」ができました。「都ができ、聖徳太子が17条の憲法を制定し、仏教を持ち込み日本の国として諸外国に認められる第1歩となったのがなにわの宮です」とのお話に、大阪は歴史的にも大切な場所であったことを改めて認識しました。
 都が作られることにより人口が増え農耕地が必要になってきますが、砂州は堆積した肥沃な土地で、よい野菜が採れる「菜庭」になったのだそうです。
 「魚の庭」は大阪湾のことで、非常に豊かな漁場が広がっているからだとか。現在の大阪の地形に比べますと、今の大阪市の2分の1はまだ海だったようです。
 多くの川が流れていて、季節毎に水害が起こっていた大阪では治水事業が必須でした。治水技術について知識とスキルを持っていた河村瑞賢が安治川の開削を行った結果、天下の台所と言われる華やかななにわ「浪華」が生まれるポイントになったそうです。河村瑞賢は大阪の中心地まで大きな船で行けるようなルート開発を試み、曲がりくねった川をまっすぐに付け直すことにより大量に出た土砂を海に捨て、結果埋め立てが進み、その土地は肥沃で作物が良く育ったので経済の中心になると同時に「名の庭」になっていったということのようです。歴史を辿ってみると事実がよく理解できます。
 河村瑞賢は、東回航路と西回航路をつくり、江戸期、大阪と江戸を菱垣廻船が回航するようになりました。当時、江戸の人口は爆発的に増え、生活用品などを大阪から売りに行くことが考えられ、共同運航の船を造ったのだそうです。今でいう宅配便のハシリのようなものとか。新しいシステムは大阪から生まれていたことを裏付けています。種々の荷物を集めて船に乗せ、一括して江戸へ運ぶ、迅速になおかつ大量に届けることが可能になったのだそうです。帰りは江戸から干鰯(ほしか)を積んで帰り、それを埋め立て地へ播いて肥料にし、そして「菜庭」と呼ばれるようになったそうです。
 米や綿花、菜の花をたくさん栽培し、綿花は非常に質の良い河内木綿になっていき、菜種油を搾る技術も大阪は高かったそうです。「質の良い油が大量に手に入る、良い匂いのする煤の出ない食用にもなる油は非常に商品価値が高かったのです」と石濱氏。

 毎年秋、その年の新綿を大阪から江戸へ競争で運送した菱垣廻船の年中行事のことを新綿番船と言います。江戸の人達は初物が大好きで、1番に江戸に着いた船は、高値で買って貰えました。500トンくらいの荷物が積めるので、大阪が「天下の台所」と呼ばれる大きな要因になったそうです。「ちなみに、なにわの海の時空館に“浪華丸”(全長約30m、帆柱の長さ約27,5m)が最後の一隻として展示されています。来年以降撤去、破棄されるかも知れませんので、今のうちにご覧いただければ」と石濱氏。
 大阪移出入小品番付表という表があり、大阪が「食い倒れのまち」と言われている、その、もとになる様子が載っています。1714年に港に出入りしていた商品番付です。
 素材が大阪に集まり、職人たちが何らかの付加価値を付けて製品になって出ていく・・・例えば、菜種の場合、菜種油にして又他の土地に売る、大阪のまちを通るということが、付加価値が付くことに。「品物を見定める、手を加えた方がよく売れるなど、目利きができるのが大阪の商人なのです。がめついだけではないのです。大阪の名物とは集まってくる品物に付加価値を付けることでした」とのお話に、大阪商人は優れたものつくり人だったことが理解できました。
 大阪には堀が多くあり、市がたくさんたったそうです。世界に先駆けて行われた堂島の米市場、天満青物市場、雑魚場市場、干物を一番最初にやったと言われている靭海産物市場があり、天下の台所と言われる所以です。
天満青物市場の図からは「朝早くから大騒ぎの様子がみてとれます」と石濱氏。スイカ泉州はスイカの生産地)ウリ(シロウリは大阪の名物)が一杯並んでいます。
 雑喉場(ざこば。落語家のざこばさんの名前の由来)。「魚市場のことをざこばと言いますが、格式のある市場です。早朝瀬戸内や泉州沖からたくさんの新鮮な魚が集まってきました。菜種油を燃やして夜が明けきらないうちに取引が始まっています」と説明していただきました。鯛、チヌ、アナゴ(堺は昔アナゴの名産地だった)などが並んでいます。水揚げされた魚は、漁師の船の中の生簀で2、3日間きれいな水の中で育てて、汚いものを出させその後、市に運ばれるので非常に質のよい魚とされていたそうです。
 堂島米市場については、「米相場が昨年80年ぶりに復活しました。煙が出ている時間帯だけ売り手と買い手が商売の交渉をしてもよかったのです」と石濱氏。当時から現物の米はなく、帳簿があって作柄などを予測して取引していたそうで、現在の先物取引とほとんど同じだったそうです。現在では想像もできませんが、大阪は本当に早い時期から商売の基礎を作っていたことがよく分かりました。

 大阪は川との戦い、水との戦いでしたが、水の名所でもあったそうで、金龍の水、有栖の清水、増井の清水、安井の清水、玉手の水、亀井の清水(四天王寺)、逢坂の清水の七名水がありました。
 名水を裏付けるものに豆腐があります。大阪の名所100枚を描いた絵の中に高津神社があり、高津神社の名物は湯豆腐だったとか。最近復活して谷町4丁目と9丁目の2軒のお店でその味を味わうことができるそうです。大阪にはたこ焼きやお好み焼きだけでなく、はんなりとした食べ物があったのですね。
 増井には高級料亭があり、浮瀬(うかぶせ)という名前がついた盃があり、それで遊びをしたりおいしい物を食べたりしていたとか。この周辺には有栖の湧水もありました。増井の井戸は2段になっていて、上段は士が、下段は一般人が飲んでいたようです。その水で酒を造っていたという話もあるそうです。
 花もまた、良い土と水が必要と言われていますが、浪華百景の中で“梅やしき”が紹介されています。「高津神社の公園に小さい石の橋があります。昔はそこに川が流れていて、そこが道頓堀川の源流だったとも言われています」と石濱氏。何気なく歩いていますが、次にその辺りに行くことがありましたら、しっかり見届けたいと思います。
 大阪はくいだおれのまちと言われていますが、木による杭という説もあるそうです。「澪標は大きな船が入って来る時の航路の標識になっていましたが、澪標に続いて木の杭が並んでいたのです。この中を通っていけば千石船のような大きな船でも座礁することなく大阪の町中まで行けたのです」とのお話に、食いと杭、とても面白いと思いました。
 江戸時代、120本位橋が架かっていましたが、お上がかけた橋は僅かに12本でしたというお話には本当に驚きました。残りは町人が架けたそうで、橋の名前にお店の名前やその辺りを開拓した人の名前がついていることからそのことが分かるとのことです。橋を架けるために一生懸命杭を打つ、しかし自分の店の経営が思わしくないのに橋ばかり架けていたのでは倒れてしまう、そういった戒めのために使われていたようです。大阪のくいだおれは「食い倒れ」だと信じていましたが、歴史を紐解くと面白いですね。
 石濱氏は1990年代、黄土高原の緑化のボランティアにも参加されたそうです。その際の市長の言葉、そして石濱氏が「とても好きな言葉」とおっしゃる言葉をご紹介いただきました。「10年楽しみたかったら、子どもを育てなさい。50年楽しみたかったら、まちを作りなさい。100年楽しみたかったら、森をつくりなさい。」
 大阪の人達は100年楽しむための森や人が育っていくために必要な大切なもの、まちをつくるために必要な土地や台地を埋め立てて自分たちで造っていった、バイタリティーに溢れた人たちでした。
 「現在、文化行政に手が回らず、たくさんの物が見失われていっている状況です。3世代文化が途切れてしまうと復活することはできないと言われています。取り返しのつかないことになります。新しいものには確かに集客力があると思いますが、外国の方は、その場所、遺跡にどういった歴史があったのか、どういう物語があるのか、それが今の大阪の人達にどう生きているのか等々を一番見たいと思っている筈です。」また、10年間時空館の館長を務めておられた時には「良いものは良いと見分けられる人達が一人でも多く復活してくれるように、自分達のおじいさんやおばあさん、身近な人たちがこんなにすごいことをやっていたんだよということを皆さんに伝えたくてやっていました」と石濱氏。近い将来、大切な文化が途絶えようとしていることに警鐘を鳴らされ、大阪の文化を後世に残していくことの大切さを訴えられました。ヨーロッパでは歴史的遺産が大切に保存され、世界中から多くの観光客が訪れ感嘆しています。私たち日本人、大阪人も文化の保存に向けて意識改革をしなければと思いました。


閉会のご挨拶 副理事長 黒田錦吾氏
 谷岡氏が1枚の写真のために現地へ10~15回も足を運び、一瞬のシャッターチャンスを捉えて撮っておられる、徹底して良い写真を撮ろうとされるその思いが大切なのだと思う、と感想を述べられました。また、素人が撮影するとフラットになってしまいますので、今後奥行きのある写真撮影のテクニックをお教えいただきたいと依頼されました。ファッションでは「ブランド、ルーツは民族衣装から」というお話から、ご自身が昨年アフリカへ旅行された時の印象を話されました。「デザインといい、色といい、非常にきれいでした。斬新なんです。」

 なにわの海の時空館については、これまで「変わった建物やなあ」と思っていました、ぜひ近々訪れたい」と述べられました。
 黒田氏はなにわの古地図をお買いになって、地震が起きた時にどのような被害が起きるか、経験が忘れ去られているので歴史から学んだ方がよい、と地名の由来や川の付替えによる地形の変化などを学んでおられるそうです。
 なにわの漢字については4つしか思い出せず、8つもあるということを初めて知りました、と感嘆しておられました。
 「今日は個人的な知的好奇心を満たされました。また、非常に大勢の方々にお越し頂き、本当にありがとうございました」とお礼を述べられました。


交流会にて